e日記風 独り言

気まぐれ & 気まま & 天邪鬼な老いぼれ技術屋の日々の記録のうち、人間の性格や本質、能力、考え方から文化論までに関連した記事です。
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-1602- 土いじりの続き
よく人が傍から見たら一見簡単な一筆でも描けそうな絵を描くのを横で眺めていると同じようなことを思う。先人の手本を真似る場合はともかく、オリジナルの題材になると最初は何を書こうかを悩み、次に構図を悩み、筆跡や些細な色の違いなど書き方を最後まで悩む。傍目には出来上がったと思えても、まだ何か気に入らないらしくひたすら紙を無駄にしては、ほとんど違いのない絵を描いている。これは大げさに言えば際限のない悩み、生みの苦しみとでも言おうか、精神を病んだという大画家の悩みがほんの少しだけだが分からなくもないとさえ思えてくる。白紙に絵を描くことの大変さは見たままを切り取るカメラを生業としてきた者にはちょっと理解しがたい。
しかし、そんなことを考えつつ 土いじりしながらふと思った。製品の開発や事業創成という場面においても、実は「白紙に絵を描く」のと同じようなことが言えそうだと。
ある意味、日本のフィルムカメラ開発というのはドイツという先人の手本の真似をしていた時代が長かった。多くの先人は繰り返して手本をリニューアルしてきたと言えなくもない。完全機械式のカメラはもちろんだが、電子化されたとしても基本はドイツがメカでやっていたことを電子で置き換えるだけであって、それを効率よくより大量に作るというチャレンジでしかなかった。その意味で白紙に絵を描くようなことはやって来なかったと言えば言い過ぎだろうか? 私はそれでも最初にカメラのプロジェクトを任された時一体何から手を付けてどういう手順で事を運べばいいのか途方に暮れた記憶があるが。
その最初の経験から何製品かの開発を経験して、もう自分が技術屋として進むべき方向にはやるべきことが見当たらなくなったと気づいた時 フィルムカメラを卒業することを決意し、5年に渡る上司との交渉の末、新事業への移動が叶いデジタルカメラを任された。しかしこちらは本当に白紙に絵を描くようなものだと思った。大量生産のデジタルカメラとしては、外観デザインから各ユニットの機構まで殆どお手本らしいものはなかった。技術的には近いビデオカメラも動画を撮るための外観やレイアウトであり 私からは「カメラ」とは認め難かった。カメラユーザーに「何だ、ビデオカメラか」と思われた途端、市場は1/10以下に縮小してしまう。何より我々が開発するものはもっと生活者に近く馴染み深い一見して「カメラ」と分かるものである必要がある。「カメラ」で撮るのと同じようにして使ったら、画像がすぐ確認できて自宅でカラープリントもすぐ出来る、パーティが終わる前にハイライトをプリントして感激が冷めないうちに配れれば大喜びされ、今までのカメラユーザは躊躇なくデジタルカメラを使ってくれるはずだ。 そこまでは分かっても、しかしそんな製品のお手本はあるはずもない。全ては自分で決めるしかない所に追い込まれた・・・イヤ 自分で自分を追い込んでしまった。
白紙を渡されて「デジタルカメラという絵を描け」と言われたのに等しい。設計ももちろんだが、生産に至る全てのプロセスは白紙同然だった。
もちろん、私は逐一の具体的な設計をしたわけではないが、かき集めの設計者が自分で考えて最適設計するわけもないから、何をどうするかは指示しないとすぐに1ヶ月くらい経ってしまう。しかも日程が半分以下と言うことは、重篤な不具合で基本の設計変更は許されない。試作一回で評価して、少変更したら即生産に移行できる設計が必須だ。長年培ったカメラが得意としてきた「微妙なバランス設計」は使えないと最初から捨てた。とにかく原理原則に逆らわないシステムにすると決めた。
この続きもまた後日

今日の写真はマムシグサ・・・だと思う。出先で散歩したら近くの神社の草むらにグニュッと鎌首をもたげていた。
2016/05/15