e日記風 独り言

#気まぐれ & 気まま & 天邪鬼な老いぼれ技術屋の日々の記録のうち、政治や社会問題に対する勝手な私見を書いてみました。専門家ではありませんが、岡目八目という言葉もある通り、時には本筋を突いていることもあるかも?
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-2391- フジTV問題
タレントの中居氏のセクハラ問題が露呈させたフジTVの経営体質問題が第三者委員会の報告を経て、再び日々メディアを賑わせている。
この話題で 40年間トップに居座り続けたという日枝相談役の話を聞くたびに、思うことがある。
20年ほど前まで在籍した会社にも、30年近く実質トップに君臨していた S氏という人物がいた。その人は私が入社後、10年ほどした時に社長に就任し 以降20年超を社長〜会長〜最高顧問 という形で君臨していた。私が直接話をしたのは数えるほどしかなかったと思うが、いろいろな人から話を聞いてそれらの断片をつなげて推測すると、やはりかなり上昇志向や権力への執着心が強い人だったと思う。
私が入社した時は北村社長という人だったが、その人からの S氏への社長交代劇はあまり公にされていないが、結構生臭いものだったらしい。その当時まで売上の中心を占めていたカメラなどの既存分野と、カメラをベースとしつつも新規事業として内視鏡という医療分野開拓に成功した立役者の F氏(当時専務)との間で椅子争いがあり、その競争に勝った S氏は徹底して F氏の人脈排除に努めた。その最大の出来事が当時社内で「A計画」と呼ばれた開発部隊の各主幹工場への移転計画だった。当時の開発部隊は技術の横断的活用や採用に利する狙いで八王子事業場に集約されていたが、その事業場が事業拡大に伴って手狭になったことで、カメラと顕微鏡の開発部隊はそれぞれの主幹工場のある長野県へ、内視鏡の開発部隊は会津工場のある福島県に移動させるという計画だった。当時は八王子の開発で新製品を開発すると、それを工場に生産移行する際に担当した開発部隊がそっくり数ヶ月間工場に出張して工場の技術部隊と協力して生産立ち上げするというスタイルが定形で、最初から開発部隊が工場の近くにいればそうしたムダもなく効率的な生産開始が可能になるはずという尤もな理屈だった。
しかし、これを知った各開発部隊の特に若手開発者は突然地方への転居を迫られるという現実にうろたえて、八王子市内の本屋の店頭から普通なら山積みになっているはずの転職関係の雑誌が一夜にして消えたと言われるほどだった。私自身は長野県は出身県でもありさほど拒否反応は感じなかったが、実際私のところにも後輩の何人かが憤慨して飛んできて「もしこの計画が実行されたら私は辞めます」と訴えた。しかし、どう考えても入社数年の彼らがそのまま他社に転職しても「開発」という仕事で食っていけるとは思えず、その場しのぎではなく本心から「今の君らの実力じゃ他社に移っても通用しない。とにかくあと 5年一緒に仕事をしよう。その間に実力をつけて、その時やはり同じ結論だったらその時に判断すればいい」となだめた。
結果的には、そうした開発者の騒動が影響し、労働組合も反対の姿勢を強行に打ち出して、その計画は頓挫して撤回された。・・・と表面的には解釈されているが、私の解釈は全く異なる。この計画(誰が最初に言い出したかは私も知らないが)の責任を取る形で当時開発担当取締役だった当時の F専務が退き、間もなく何人かの F専務派と目される技術系や製造畑出身の役員数人も退任していった。この結論が下されて間もなく、S氏(当時社長)がカメラ開発の定期的な方針説明会にわざわざ出席して「あの計画を私は止められず、皆さんに迷惑をかけて申し訳なかった」というような話をしたが、それはあたかも自分ではない誰かが無理に進めた計画だったというような言い訳に聞こえた。
穿った見方をすれば、社員の反発を予想した上でわざと計画を進めさせておいて、労働組合も使って「計画潰し」にかかった出来レースとも思えなくもない。実際、その後の粉飾決算で有罪確定した元社長 K氏もその一時後任の T氏も労働組合の委員長経験者だった。更に、F元専務以降も稼ぎ頭の内視鏡出身の役員は社長にはなれず、社長の椅子はアメリカ法人の社長経験者に譲る形で推移し、当時そんなことには一向に関心のなかった私ですら「どうして一番の利益事業の人が社長にならないんだろう?」と思った記憶がある。
そんな経緯を経て、社長の座を確固たるものにした S氏は社長を9年間努めた後、会長職、更には最高顧問という形で君臨し、社長人事などのトップ人事に介入していた。実際 私がデジカメ1号機開発を成功させて、軌道に乗ったデジカメ事業がそれまでの全社売上と同じ 2千億円に達したのに、「もう一つO社を作ろう」という合言葉で新事業を牽引してきた立役者の Kさんは権威主義が大嫌いで S氏とは折り合いが悪く、その S氏(当時は最高顧問)からの 当時の K社長に「あいつだけは絶対に役員にはするな」という厳命が下されていて、K氏は「申し訳ないが、SさんのOKが出ないので君を役員には出来ない」と Kさんに謝ったという。Kさんは「全社一番の 2千億円の事業を育てたのに役員にもなれないなんておかしい」と憤慨し、他社への移籍を決めた。それを聞いた私は「院政のOBが役員人事を牛耳る会社に未来はない!」と憤慨して後に続いた。
そんなS氏(当時社長)から私が初めて直接話を聞いたのは、私の初の海外出張でラスベガスで行われたカメラショーに行ったときのこと。アメリカの販売代理店は、元は米国の商社だったがそれでは自社製品の販売戦略が思うに任せないということで、その商社から営業権などを取得して米国子会社が設立されたが、その立役者が S氏だった。ラスベガスでの食事会とニューヨークに移動してからの二度の食事会で S氏は、私を含む出張者や現地法人の駐在員を前に ことさら我が家意識をひけらかして昔の武勇伝や苦労話を聞かせた。
その出張から帰って暫くして、八王子事業場にいた私に、八王子の総務の女性から電話があり「S社長が見えて、Nさんをお呼びですが来られますか?」と言われた。突然のことで戸惑ったが、とりあえず役員応接に出向くと S氏は「今年のベースアップは精一杯頑張ったつもりだが、社員の反応を聞かせてほしい」などと切り出したが、結局 30分ほどの時間は「自分が如何に社員のことを大切に思っているか」という話に終止して、聞かされた私は「暇つぶしだったのかな?」「出張したのは私だけではなかったのになぜ一人呼ばれたのか?」などと思った。
その後、上記の「A計画」の話などが出た時に「社員を第一に考えている」と言っていた社長がこんな計画を本気で進めようと思うはずがない、きっと何か裏がある・・・・と勘ぐった記憶がある。
そして、損失隠しの件が明らかになって、「そうか、社長の椅子はアメで損失隠しの申し送りというムチが隠れていたんだ」と納得した。
というような、今となっては記憶の彼方の昔話のような話だが、こうした権力に執着する人は長くその権力に居座ることでいつしか「オレの会社」と勘違いしてしまい、自分にとって都合のいい人事を行い、仮に自分に従わない人が頭角を表せばどんなに有能な人でも潰しにかかるようだ。だから目的に適った組織などとはほど遠い腐った組織になってしまうということなんだろう。
別の場で聞いた他社の話でも、TVの会社と同じブランド名の同業他社でも同じような構図があったらしく、社長・会長を退いた後も顧問などの肩書で居座って人事を牛耳り、後任社長を数年ずつですげ替えては自分は院政を敷いていたという。後任社長たちも社長にしてもらった手前、根幹の人事については何も文句は言えず唯唯諾諾と従っていたらしい。まぁこちらは大した弊害も聞こえてこないので、同じとは言い難いかも知れないが。
そう言えば・・・と思い出して、自分の書いたことながらほとんど忘れかけていた昔の記事を検索して見つけたページとかこれとか(残念ながらリンク先のページはすでに存在しないが)。元々「良い人」も長期権力の座に居座ることで組織が腐る、だからどんな実力のある人でも長居してはいけないという教えがあるが、最近とんと聞かなくなった諺「流水不腐」を思い出した。
ニュースを見ていたら思い出がつながってついつい長くなってしまった。
今日の写真は昨日出かけたザゼンソウの里公園で購入したユキワリソウ。名前につられて購入したようだが、直径 1Cmに満たない小さな花。地植でうまく根付くか?
2025/04/01
 
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