e日記風 独り言

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-1896- 死を意識:続きの2
他人にはどうでもいい話の続き。
電電公社内部の養成機関は不合格になったので、そのまま1年ほど夜間大学との二足のわらじ生活を続け、ある5月の金曜日の夕方 電電公社の先輩と神田の飲み屋でかなり飲んで(行きがかりは記憶していないが)夜遅くその先輩の小岩の実家に転がり込んだ。翌朝朝食をごちそうになって、バス停まで送ってもらいバスに乗って駅に出ようとしてバスの座席に腰掛けたら突然例の息苦しさに襲われた。
1年ほど前の病名宣告で、次に発症したら迷いなく手術することに決めていたので、そのまま苦しい肺をなだめつつ、とりあえず都立大学駅にあった下宿のような自宅に戻り、保険証を持ってから すぐそばの大学の学生課に行って事情を話して夏休みまでの講義の休講届けを出し、そのまま五反田にある逓信病院に向かった。
すでに午後になっており、土曜日でもあるし外来はすでに閉じていたが救急窓口に事情を話すとすぐに胸部外科で診察してくれるという。そこで医者に「自然気胸が発症したので息苦しい」と説明すると、無愛想な医者は「病名はこっちで決めるから」と言ってレントゲン撮影をされ、結局「左肺自然気胸」と診断されて、「この肺の容量でよく一人で歩けたな」と感心され、そのまま応急処置で肺に注射針のような空気抜きを刺して肺の外部に漏れ出た空気を抜いてくれた。針の先にはチューブが接続されそのチューブはベッドの下の液体の入った容器につながっているようで、空気が抜けるのが「ゴボゴボ」という音で分かったが、同時に呼吸が楽になっていくのでそれまでの医者の説明が身体で理解できた。
そのまま車付き寝台で胸部外科の病室に運ばれて入院し、翌週 曜日は忘れたが手術と決まった。当時 胸部外科は手術後の結核患者と同じ隔離病棟だったので、感染予防の説明などを受けて手術よりもソッチのほうを心配した。
翌週のはじめ、手術の事前検査ということで硬性鏡による肺表面の観察が行われた。胸の局部麻酔で肋骨の間にメスを入れ穴を開けてそこから硬性鏡(細い覗き眼鏡のようなもの)を胸郭まで突っ込んで肺の表面の薄い膜の部位を特定するらしいが、局部麻酔なので意識はあり、胸を強く抑えられてメスの入る瞬間を分からなくしたらしいが、やはり左胸と言う急所にメスが食い込んでいく感触は消えず何とも言えず気持ちの悪いもので「その先には心臓もあるんだし・・・」などと要らぬ杞憂をした。そして表面の膜の薄い部分を確認し始めた医師が、最初は「こことここ」などと言って多分カルテに部位を書き込んでいたと思うが、その内に無言になって硬い硬性鏡の先で肺をこねくり回し始めた(実際には鉗子も一緒に挿入されていたのかも知れないが)。終わって傷口を処置した後で受けた説明では、「普通多くても2~3箇所なんですが、あなたの場合十数カ所(数は正確には忘れた)あります。もしかすると肺の裏側などにもっと隠れているかもしれませんが、あとは手術時に肉眼で見ながら切除縫合します。かなり手術時間は長くなりそうです。」と驚くような宣告をされて楽天家の私も流石にちょっとショックを受けた。(しかし今になって思うと、そのことが却って研修医などの実験台にされず名医の執刀を受けられた理由だったような気もする)
で、手術の同意書や手術時の肉親の付き添いなどが必要なため、当時川崎に住んでいた兄に連絡し翌日来てもらうことにしたが、その時 故郷の両親には心配かけたくないので話さないでと頼んだ。兄は了解してくれたが、義姉は「お父さんお母さんに聞かれたら何て言ったらいいの?」とかなり戸惑ったらしい。自分では1ヶ月の入院が過ぎ退院するとすぐに大学は夏休みだし、勤めは手術後の病休を使えば1週間位は帰省できるので、回復した顔を見せて自分で説明したほうが余分な心配かけなくて済むし、何より東京を一人では歩けない田舎の年寄りが出てこられても兄夫婦には二重の負担をかけるのでそうするしか無いとの判断だった。
で、実際に退院して数日後帰省すると、両親は何事かと訝っていたらしい。それまで電電公社勤務だから局内からの電話は無料で、私にしては比較的マメに両親に電話していたのに、それをしなかったので義姉の心配は的中し入院中に両親が兄の家に電話した際「○○も電話がないけど変わりないか?」と聞いたので、つい義姉は言葉に詰まって苦し紛れに「それが・・・、 ○○さんが自分で話すって言ってましたから」と言ってしまったらしい。両親はそれを聞いて「電話で話せないことなんて、よほど悪いことでもしたんだろうか?」と逆にあらぬ心配をしたらしい。
で、事の次第を話すと「大変だっただろうけど、身体がよくなったなら良かった」と言ったものの、後日親戚から聞くと「頼りにされない親というのも寂しい」と話していたらしい。ちょっと悪いことをしたかな? とは思ったが、性格柄「もっと世の中悪いことだってあるんだから」と思い直した。
そんなこんなで、死を一瞬だけ意識した手術を経てとりあえず自然気胸の恐れはなくなり、考え方によれば「あとは拾い物の人生、思い切ってやりたいことをやってみよう。」と居直った結果、タダで入院や大手術を受けられたり普通の人ではまず頼めない高名な政治家が指名するような名医に執刀してもらったりと随分お世話になったけれど、大学卒業時に電電公社は辞めて高校時代からの夢だった純技術的な・設計のできる仕事に就こうと心が決まった。(それまでも他人から見れば十分居直ったような生き方だったかもしれないが) この時も両親は「絶対に潰れない電電公社を辞めるなんて」と思ったらしいが、自分の息子の性格も分かっていたのだろう、何も言われなかった。
とにかく、人間小さくても一旦「死」の可能性と向き合うと、ものの捉え方は変わって岐路の選択方法も違ってくるもんなんだろう。

今日の写真は1週間近く前の撮影になるが出早神社の境内に咲き始めていたアズマイチゲの花。
2017/04/23
 
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