| -1171- 死に場所難民 : 続き |
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昨日の続きで「死に場所」に連想して思い出したので続ける。 養老孟司の「バカの壁」か「死の壁」にあったと思うが、都市化とは人間が生活する上で絶対避けられない汚いものや見たくない物を見ないようにすることだ、というような文があったと思う。 (原文はもっと回りくどいが、つめて言えば)一昔前まで、糞尿は自分で処理するか汲み取り屋に頼んで肥桶で運んだが、それがバキュームカーになり、今では水洗で下水道を通じてどこか見えない所で知らないうちに処理される。人間の死も、昔は家で看取るのが普通で暮らしに身近だったが、今は病院や施設で死ぬのが当たり前、家族ですら死にゆく人を見る機会も臨終に立ち合う機会も減って「死」が遠くなってしまった。極めつけは○○ニュータウンのようなところの初期の高層マンションで、中で人が死ぬことを想定していなかったのでエレベーターは棺桶を立てないと運び出せないとか。(この本を読んだので、今のマンションに入居した時、私もエレベータを確認したが、どうやら下半分は奥が開くようになっているらしく、今は横のまま運べるらしい) つらつら考えてみるに、私自身も両親共臨終には立ち会っていない。亡くなる1~2か月前から管につながれたまま、一日一日はほとんど変化もなく意識もなくなったので時々見舞いに行って、最後は病院からの連絡で死後に駆け付けた。・・・というか、結構離れたところだったので親父の時は自宅に、母の時は式場に駆け付けた。そうは言っても親父の時は、田舎の古式のお寺だったから死装束やら納棺も坊さんの主導で親族でやったから「死」がまだ身近だったが、母の時は横浜だったし式場に駆け付けた時はすでに奇麗に死化粧して納棺されており、全く触れることもなく終わってしまった。「死」が業者のサービスで処理されていったような ・・・あれを果たして死に場所があったと言って良いのかどうか? そうした経験しかなくても、否が応でも自分の行く末を考えるが、夫婦ともに「管に繋がれるのだけはゴメンだ。口で食べられなくなったら自然に死ぬのが一番だ。」と話し合っているが、それが許されるかどうか? 口で食べられたって、自分の手で食べられなくなったら、誰かに養ってもらわなければならないが、少なくとも夫婦のどちらかは夫婦以外の人に頼らざるを得ない。経済的、時間的、家族的に子供でも介護者でもそれが許される状況なのかどうかも??? と考えて来ると、大昔子供のころに聞いた「姥捨て山」の話も、少なくとも自分の側からはさほど悲しい話ではなく、一番自然なのかなとすら思えてくる。特養やらと言う表向き奇麗な建物に入所しても、子供たちの心のどこかに「姥捨て山」などと言う自責の念を生じさるのはさして変わらないかも。 今日の写真は生け垣の中から花だけが顔をのぞかせていた花。ユリの種類で多分カスケードという種類ではないだろうか。好きな人もいるんだろうけど、ちょっと色的にドクい感じがする。やっぱりユリは白かオレンジでなくなくちゃ。 |
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2014/08/09 |