岡目八目: TVとゲーム機、更には携帯 <勝手な文化論>
技術の進歩と価値観の変化:その1

  1. ゲーム機のリセットボタン
     夏休みの帰省ラッシュに仕事で新幹線に乗りました。まだ会社の休みには少し早かったせいか子供連れの母親が何組も乗っています。最近の帰省の光景も様変わりして、電車の中でも子供達の多くは携帯ゲームに没頭しています。せっかくの親子での旅行ですから、景色を見て話をしたり親子でできるゲームをするというのが一昔前の光景だったような気がしますが、母親も騒ぎ回られるよりはいいと見えて、ゲーム機で一人で遊ぶ子供に干渉はしていません。
     で、少しの間ゲームをする子供を横目に観察していました。本当に鮮やかなキー操作で、いくつもの画面をクリアーしていっているようです。・・・と、そこまではいいのですが、ちょっと気になったのは、間に何回かリセット(というのか何というのか知りませんが、途中までの経過をリセットしてリスタートさせる)をしているようです。
     そう言えば、と思い出しました。我が家ではかって、子供が小さかった頃にゲーム機を買い与えなかったのですが、親切な?知人が大きくなった子供が使わなくなったファミコンを持ってきてくれて、小学生の娘がしばらくそれに嵌っていたことがありました。まだ私が仕事で忙しく、子供のことをかまっていられない頃で、嫁さんが「ゲームばかりして」と、ご多分にもれず小言を言っていたことがあります。
     で、我が家のゲーム機はいつの間にか子供から取り上げられて天袋にしまわれてしまいましたが、ゲームの途中でうまくいかなくなってリスタートさせていたことが、当時も何となく気になっていました。

  2. TVのチャンネル
     その後の一時期、子供がTVを見ているときにも、同様の違和感を感じたことがあります。
    それは、ゲームの展開が思うようにいかなくなったときと同様に、TVの番組が面白くなくなったとき、ゲームをリセットするのと同様にTVのチャンネルを次々と切り替えてしまうことでした。
     世の中の、<リアルの世界>の多くのことは、たとえ自分が面白くなかったり、面倒くさかったりしてもいったん始めたことは簡単には止めれないのが普通です。仲の良い友達同士で遊び始めても、自分一人が面白くなくなったからといって止めてしまうと、友達も遊べなくなってしまいますから、少なくともある年齢になると、友達に気を遣って「我慢」しながら遊び続けることが普通です。そして何度目かに同じようにして遊ぶときは、もしかして止めたくなった時のことも事前に考えてから仲間を誘うなどの知恵がついていきます。トランプゲームで、年少の子供が負け続けると面白くなくなって「止める」と言い出しますが、年長の子供はメンバーを確保するためには、ハンディを与えたり時々はワザと負けてあげたりしながら遊ぶこともあるでしょう。リアルな世界では楽しい遊びの中にも、人間関係とかある種のルールという不自由さがあり、その不自由さが人間形成していくという側面もあるような気がします。
     しかし、<バーチャルな世界>である一人遊びゲームも、自分一人で見るTV番組も、面白くなければいとも簡単にリスタートさせたり、チャンネルを切り替えたりできます。これは、一人で遊ぶゲームや、子供部屋にあるTVでだけできる特殊な環境ですが、しかし、こうした<バーチャル>な環境で遊びすぎると、リアルな世界の不自由さに比べてこちらの世界があまりに居心地が良すぎて<バーチャル>な世界に閉じこもってしまったり、<リアル>の世界と<バーチャル>な世界とがひっくり返ってしまうこともありそうです。
     そう、ゲームで遊ぶ子供達を見ていてふと思ったのは、いとも簡単に問題を起こしてしまったり、切れてしまう子供のことです。世界がひっくり返った子供達が、ゲーム機のリセットボタンを押すように現実世界で友達や家族との間で起こした問題がリセットできると勘違いしたり、TVのチャンネル切り替えのようには思い通りにいかなくなって暴力以外に表現できなくなってしまったりするのではないか?
     でも、一旦起きてしまった現象は<リアル>な世界では、勿論、リセットボタンを押すようにはリセットできないのです・・・・それがたとえわずか1分前の状態にであったとしても。単なる友達関係などでは、一時の感情で喧嘩しても、元に戻したければ謝ったりわだかまりを取り除くような努力をすればまた友達に戻れますが、それはゲーム機のリセットボタンを押すことと比べるとはるかに勇気や気遣いの要ることで、そのことに子供が気づくのはかなり大きくなってからではないでしょうか。

  3. 更には携帯電話
     その後、子供達は携帯電話の虜になります。携帯電話の向こうにいるのは普通、実生活でも顔を合わせる<リアル>な友達です。(*) しかし、そうした友達と、四六時中一緒にいることはできませんし、ましてや何人もの友達が自分を取り巻いてずーっと一緒にいてくれることなんかあり得ません。よほどの人気者でもない限り、普通同時に話するのは2-3人の友達です。そして小学校の友達と話していて、中学の友達と話するときは、小学校の友達とは別れて中学校の友達のところに行って話をしないといけません。つまり、話する友達を代えたいと思えば、それまで話していた友達に一旦別れを告げなければなりません。
     ところが、携帯で話をしたりメール交換をするようになると、ほとんど同時に何人もの友達とコミュニケーションできてしまうのです。しかも、何人もの友達と話するときは、お互いの気分を害さないようにとか、共通の話題を探してとか、結構気を遣って話をすることになるはずですが、携帯でコミュニケーションするときは、基本的に1対1ですからそうした余分な気遣いは無用です。
     そして、ここでも都合の良いときだけ友達とコミュニケーションするということが許され、雰囲気が悪くなったら友達の顔を見ずに電話を切ることも可能です。メールとなったら、もう感情もない短い文字情報だけになりますから、面と向かって話することと比べたら本当に表面的な交流にしかならないはずです。(若い女の子達は、私にはとても理解できない顔文字とか豊富なグラフィック、あるいは暗号のような言葉を使って、彼女らなりに感情を伝えているようではありますが)こうして、リアルな友達とも、本当の感情を必要としないバーチャルな友達関係を築いていくような気がします。


  4. リアルな世界に絶縁したまま大人になる
     物心つく頃には携帯電話やゲーム機はおろかTVもなかった私にとって、ゲームの世界は言うに及ばず、TVドラマも結局は虚構なんだという認識が表裏一体にあるのですが、物心ついたときにすでに生活の一部としてTVやゲームを取り入れてしまい、その後も<リアルな世界>と<バーチャルな世界>の比重を間違った子供は、その境が分からなくなってしまっても仕方ないのかもしれないし、その後続けて受験勉強という一人だけで戦う世界に入っていったとしたら、結局人生の一番大切な時期には<リアル>な世界からは隔絶されてしまうことになりそうです。
    これは、オートレンジの測定器で育ったエンジニアよりずっと根の深い問題かもしれない・・・・そう思えてきました。

*  丁度、8月15日の朝日新聞の朝刊1面に、面白い記事が載っていました。群馬大学などの調査によると、中学生の43%が見ず知らずのメル友と(よく/ときどき)メール交換をしており、それが高校生になると25%に減少すると言うことです。(元のデータはこちら)
会ったこともない相手とのメールは、都合の良いときだけ相手をしてくれて、都合悪くなったら無視しても全く心が痛まない、ともとれます。高校生に比べて中学生の頃は(小学生が携帯を持てばこの傾向はもっと顕著になるかも)、そんな意味もなく危険だけがつきまとう行為により惹かれるのでしょうか。

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