岡目八目: 世界に一人だけになったチャンピオン
技術の進歩と価値観の変化:その2

その1に触発されて、2004年の始めに記した「e日記」の内容を、少し手を加えて再掲載してみたいと思います。
4.チャンネル切り替え の部分はその1とかぶります
  1. TVが価値観を変えていく
    TVの普及とその影響に関して、岡目八目的に述べてみたいと思います。
     私の子供の頃初めて目にしたTVというものは、モノクロで画質も悪かったのですが、おそらく大人の何ヶ月分もの給料に相当するほど高価なものだったと思います。その頃私は、私の家は勿論ですが各家庭にTVが入るとはとても思えませんでした。それが、池田内閣の所得倍増政策と技術進歩のお陰で、瞬く間に各家庭にTVが普及し、画質もカラーになって驚くほど向上しました。今や 解像力が何倍にもなって、文字情報なども付加したハイビジョンデジタルTVがそれに置換わろうとしています。  小学校の頃に聞いた記憶では、発明当時にTVを見たアメリカの何処かの放送局(TVが始まる前ですから、ラジオ局だったのでしょう)のお偉いサンが、「これは人類の文明を変える」と言ったとか。目の前に無い遠くのものを、ブラウン管上に映し出すことにより、さもそこにあるかのように見せてしまうテレビは、ブラウン管・撮像管・電波 などの技術によって成り立っていましたが、写真同様やはりその初期には モノクロの粗い画面でとても現在のような娯楽用になるとは思えなかったのでは無いかと思われるのですが、それでもいずれは人々の価値観を変えるだろうという予測をしたと言うことはすごいことだと思います。
     それが、今となると現実に 人々の価値観の中心にあり、それが伝えるものは アメリカ大統領選挙を初めとして政治・経済・文化 といった世の中の殆ど全てを左右してしまいます。
     例えそうした身の回りから遠い例ではなくとも、私が気付いた一つの面白い実例をあげると、中央線・中央本線の各駅停車で、朝早く新宿から甲府に向かって高校生を観察していくとよく分かります。新宿の近辺では、一人も見かけなかった靴のかかとを踏み潰して、教科書はもとより勉強道具は何も入っていないだろうペチャンコのカバンを持った腰パン姿の高校生が、甲府に近づくにつれて徐々に増えていきます。甲府駅で見ていると、何と殆ど全ての高校生がこうしたスタイルなんです。
     <これはどうしてか> 私の分析では、情報感度の高い彼らはテレビなどのマスメディアで伝えられる一部の特殊な「都会の・先端を行く」であろう高校生を、都会の全てと勘違いしているのではないでしょうか。まだ自己主張の仕方をうまく知らず、周りの変化に敏感な高校生達は、「都会に遅れたくない」という一念で、それを真似してしまうのではないでしょうか。一番の問題は、特にTVが伝える正の部分と負の部分を見極める力のない人たちにとって、TVがある事象を報じたとたん、その事象の割合もそうではない事象もかき消され、あたかもその事象が世の中のすべてであるかのごとき錯覚に陥れてしまうのです。

  2. 見たい物だけを伝えるTV
     テレビも雑誌も、メディアはニュースになるものしか伝えません。大多数の視聴者・読者と同じ生活やそれらの人が普通に手に入れられるもの、つまり「大多数の普通」には報道の価値は無いのです。
     あるいは、視聴率本位のテレビドラマには、生活臭のある家や汗を流して働く人々は登場しません。全く手の届かない真のハイソサエティも対象にはなりませんが、ちょっと手を伸ばせば届きそうな程度の、口当たりの良い生活がさも「都会ではこれが当たり前」と錯覚させる風に演じられます。ドラマのシーンは、瀟洒な住宅に住む美男美女がお洒落な洋服を着て、気障な台詞を吐きながら美味しそうな食事をする場面でないと、大多数の大衆はチャンネルを回してしまうのですから。
     自分の家の庭の個性に気付かないで、隣の芝生が青く見える人たちには、自分が住んでいるのが日本のどこであれ、心の中でそうした画一的な「格好良さ」を基準に身の回りのものを評価するようになってしまうのです。本当にそうした生活をしている人がどれくらいいるのか、見せられないその陰にはどれくらいの汗や愛憎と言うようなドロドロとしたものも一緒に詰まっているのかを考えさせることなく、更には平穏とか本当の幸せとは何かということを自問することすら忘れてしまって、 TV画面の向こう側の生活をそっくりそのままに、主人公だけを自分に置き換えて、現実から逃避し、一時心の昂ぶりを楽しんでしまうのです。
     その結果、地方地方の価値は忘れ去られ、日本国中画一化した価値観が蔓延してしまったのだと思います。


  3. 虚像と実体
     最近は、食べ物の番組が非常に多いような気がします。TVがそれほど好きでない私からすると他人が「美味しい美味しい」と言って食べるのを見て何が面白いんだろうかと思ってしまうのですが、きっと 何時かはあれを食べたいとか思って見ているんでしょうね。
     こうした番組で、本当はほんの僅かの季節、その地域でだけ食べられる食材かもしれないのにそのおいしさをTVが伝えた途端、日本国中でその食材が引っ張りだこになったり、その地方を訪れる人が増えたりしますが、でも次の食材が伝えられるとあっという間にまた元の状態に戻る、そんなことを繰り返して地域性は失われていきます。
     私の世代の場合、テレビが一般家庭の生活に登場したのは中学生の頃でした。小学生の頃、電力会社に勤めている父親のいる同級生の家に TVが入って、そこで「透明人間」というドラマを見た記憶があります。作り話だとは分かっていても、家に帰ってから「どうして人間が透明になれるんだろう、あの包帯を顔から外していくシーンはどうやって撮影するんだろう、もし自分が透明人間になれたら何をするだろう」などと興奮して真剣に考えたことを憶えています。そして、それまでになかったそれらの体験はテレビの向こう側のモノを「虚像」として、それまでの身の回りのモノの様な「実体」とは区別してみる TVの見方を自然に身につけることが出来るようになったと思っています。
     でもその後生まれた世代は、物心付いた時から生活の中に TVがあります。TVと言うモノは身の回りのモノと同様に「実体」なんです。ですから彼らの世代にとっては TVの向こう側の「虚像」とこちら側の「実体」が混沌として、実体と同じように TVに映された映像によって価値観が左右されたとしても当然でしょう。 TV画面で見たキャラクターに遊園地で会ったら、例えそれが空を飛ばなくても、それはもう画面全体、ストーリー全体が「実体」になってしまいます。最近は更にこれが進化して、実在しない仮想の俳優が演技をするドラマが出来るのではということすら言われています。


  4. チャンネル切り替え
    前回まで述べたのは、TVが普段手の届かないところにある映像を伝えることにより、多くの人が同じモノを欲しがることにより、価値観が画一化していくということでしたが、今日は TVの特徴のもう一つの点についてです。
     それは、多くの番組が同時に多くのチャンネルで放送され、視聴者はリモコンのボタンを押すだけで簡単にそれらのチャンネルを切り替えられると言うことです。世の中で実体として起きていることが気に入らなかった場合に、それを回避しようとする事と比べると、このチャンネルを替えたりスイッチを切るという行為は実に簡単です。例えば他人と何か話をしていて、ちょっと気まずくなったり自分にとって面白くない方向になったりした場合、話題を中断したり変えるのは結構気を使います。あるいはどうしようもなくなればその場を逃げ出すしかありませんが、それも結構勇気が要ります。でも TVの番組を切り替えるのにはそんな気遣いは無用です。気に入らなければ、あるいは気の向くままにちょっと指を動かすだけで目の前の状況はその人の気に入った展開をするのです。我慢とか、努力とか、周りへの気遣いとか、そんなことは全く必要ありません。特に、子供部屋にもTVがあったりして、誰に気兼ねもしないで好きな番組を見られる環境で育ったらますますこうした傾向が強くなりそうです。
     こう考えていくと何か思いつきませんか? そう最近の子供達の問題点と一致します。我慢が足りないとか、周りの状況が読めずに摩擦を起こすとか、その果てには「切れて」取り返しのつかない事態を引き起こしたりとかです。TVが生活の中で普通の存在になるにつれ、マスメディアとしての責任をなおざりにして視聴率競争だけに注目した番組製作が当たり前になってしまって、娯楽性が強調されるあまり、それを見る人たちが徐々に変化をしていっているように思います。我々のように途中から TVが出現した世代とは違った見方をする世代には、精神構造まで TVの存在が影響しているとしか思えません。そして、我慢や辛抱といったような経験が乏しい子供が、身の回りの現実がチャンネルを切り替えるように切り替えられなかった時、どうして良いか分からなくなって突然「キレる」のではないでしょうか。
     勿論、成長の過程で自然と身に付くはずの、我慢とか耐えるとかいう経験が少なくなってしまったのは TVの普及のせいだけではありませんが、「キレる」と言われる子供の増加が TV普及世代の親の子供達(2世)の世代になって急に増加したのは TVの影響がかなり強いと私は思っています。まぁ私は教育学者でもなく心理学者でもないものですから勝手な推論が平気で書けていいのですが。


  5. 世界に一人しか必要なくなってしまったチャンピオン
     今回は、個人の自我に対するTVの影響について。
    オリンピックやワールドカップがTVで報じられる度に、そこで生まれる新たなヒーローとその一歩手前で敗退していく選手の明暗に思いを馳せます。たった一人生まれたヒーローよりも、ヒーローを生むために同時に生まれた何十人もしかしたら、何百、何千という敗者の方に思いが行きます。
     TVのなかった時代、その地域、村や部落と言った小さな単位の中には、地区運動会や○○大会と言った競技会のようなものが年何回かあり、そこでは村一番の力持ちのオジサンや、部落/町内対抗リレーでいつもアンカーを務める脚の速いお兄さんがいました。隣村のそのまた隣村にはもっと足の速いお兄さんがいるかも知れないけれども、とりあえず自分たちの生活圏の中で一番速ければ、「あの人は脚が速い」「俺が一番」と自他共に認め合えたのです。日本中、世界中に 何万、何十万という村や町内会があり、そこにそれぞれのチャンピオンが存在し、例え競技会以外では毎日の暮らしが苦しくとも、その人達の生きる心の糧になり得たのです。
     TVよりもずいぶんと古くから登場していた新聞も、遙か海の向こうで開催されるオリンピックの結果は報道していましたが、やはり一枚の瞬間映像で伝えられる新聞では臨場感がありません。地球の反対側であっても、あたかも今、目の前で行われているかのごとく映し出すTVというメディアが登場してからというもの、僅か一時の興味の代償として村一番/町内一というようなチャンピオンの偶像は色褪せてしまい自尊心も満足し得なくなってしまいました。そして村一番であっても、県大会で県一番であっても、全国大会で全国一であっても世界選手権やオリンピックで、最終的には僅か一人を除いて、残り全員が確実に「負ける」運命になったのです。村一番の力持ちが、顔も知らない隣村の、その顔も知らない隣村の誰かが更に遠くの誰かのため、そしてその誰かもまた地球の反対側の肌の色も体格も全く違う、その番組で一瞬しか見ない男のために「○○一番」というタイトルを剥奪され、自尊心を打ち砕かれてしまうのです。
     TVはこうして、世界でたった一人のチャンピオンを登場させるために、世界中のありとあらゆる場所の何千何万という人たちに負けることを強要し、自尊心を傷つけてしまうのです。


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