● お父さんの "ちょっと自慢話

お父さんの自慢話に ちょっとだけ付き合ってください。


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  • 自慢話:その2(新しいカメラの回路システム)
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  • 履歴: 2006/ 6/16 初回アップ

    前置き
    現代と言うのはある意味残酷な時代です。一昔前、私たちが育った時代には多くの子供たちは、田畑や自営業の家の中、家の近くの工場や商店などで父親が額に汗して働く後姿を見ながら育ちました。それが現代は、産業の大規模化、交通の進化でお父さんたちの多くが家から遠く離れた会社で働くようになり、子供たちが目にするお父さんは、働く姿よりも きつい仕事に精魂尽き果てて家に帰り、ゴロッと横になってTVを見ている姿くらいになってしまいました。しかもお給料は銀行振り込みで、お母さんは生活費を銀行にもらいに行きます。・・・・と子供たちが小さかったある時、そんな危機感を抱いて作ったページです。
     いつか子供たちが大きくなって、自分で仕事をするようになった時にこのページを読んで少しは父の足跡を知って欲しい、そんな気持ちでアップしました。ですから、極めて私的な話ですが、それほど歪曲や誇張はしておりません。

    1. <えっ、まだこんな作業をやっている!!!>
    2. 今はカメラでもテレビなどの家電品でも当たり前になった技術を、おそらく世界で初めて実用化したというのが、お父さんの自慢の一つです。  それは、1984年に EEPROMという ICを使って、カメラの製造工程から、手動の調整を無くしてしまったのです。(その後この技術はカメラだけでなくスマホやTVなどほとんど全ての電気製品に採用されていきました)
       この手動の調整を無くすというのは、お父さんが会社に入った時からの<>でした。 お父さんが会社に入った頃は今と比べればまだのんびりした時代で、大学を卒業した新入社員が工場で 3ヶ月くらい現場研修を受ける事が普通でした。 工場では、大学出の新入社員がくると「待ってました」とばかりに古参の先輩から毎年決まったいくつかの仕事をもらいました。
       その中でもその頃のメカ中心のカメラの秒時調整作業はとても面白い仕事でした。 カメラのシャッタースピードを 1/8秒とか 1/1000秒とかの決まった時間に調整する作業で、いくつもの部品を組み立てただけでは必要な精度は出ないので、 その中のカムという薄い金属部品を ヤスリで削ったりトンカチで叩いたりして必要な精度に調整するのですが、 手だれた先輩なら 1分しないで事も無げにやってしまうのに配属された新入社員はむやみに叩いたり削ったりで、 10分やっても20分やっても完全には調整できない作業でした。焦る私の姿を古参の先輩たちは周りでニヤニヤしながら眺めていたに違いありません。
       でもその作業をやってみて、その時の私の頭に湧いたのは「こんな勘と経験に頼った作業が当時の大きな企業の工場で普通に行われている」ことの方が驚きでした。 そして現場研修が終わって職場配属されて半年くらいした時に与えられた仕事が、まさしくこの調整作業の自動化というテーマでした。 (ただし、電気技術者のお父さんに与えられたのは、ヤスリやトンカチを使ったメカニカルな調整の自動化ではなく、カメラの露出メータの調整の自動化というテーマでした。)
       そのときのテーマをくれた上司はO大学理学部数学科出身の、難解な方程式を解くことが趣味のようなとても頭のいい上司でした。 「俺はこの回路をこうやってマトリクス演算の方程式を利用して解こうとしたがだめだった。 おまえやってみろ。」と言われたのですが、 とてもその上司が出来なかったことをお父さんが出来るとは思いませんでした。
    3. <有限要素法 ?>
    4. でも方程式を解くのは苦手でも、入社そうそうなのにも関わらず何故かアイデアだけは負けない自信がありました。
      ちょうどその頃から大型コンピュータやマイクロコンピュータといった演算を自動で出来るシステムが使えるようになっていたのです。 でも、コンピュータは数値演算が人間の何百倍・何千倍と早くても、その頃の計算機では方程式などを解くことは出来なかったのです。
       当時、会社には レンズ設計用で光学計算用の T社製大型コンピュータ(TOSBAC)がありました。 (パンチカードという穴をあけたカードでプログラムやデータを入力するという、今となっては「コンピュータ」という名前からは想像を絶するような機械でした。 でもこれでもさらに 5年前には設計課の数人の女性社員が掛け算の出来るタイガーの手回し式計算機という、今では博物館でしかお目にかかれないような機械で 1週間以上かかってやっていた計算を、1-2時間でやってしまうという、その当時としては画期的な計算機でしたが。)
       そして、その一方で単純な計算ができると言うことでは、同じコンピュータという名前が付いていましたが、Intelの 8080というマイコンチップを搭載した NECの TK-80というボードコンピュータが入手可能になっていました。
       でもこのマイコンチップは今のパソコンに使われる Pentiumなどと原理的には同じ働きですが、性能は大違いで演算能力はとても弱く、それほど大量の計算や複雑な計算が出来るものではありませんでした。
       そこで、お父さんが考えたのはマトリクスの全ての要素を予め細かく分割し、その全ての要素の組み合わせについて予め大型コンピュータで計算しておき、工場のラインではそれぞれのカメラの露出計の回路の要素が分割したどの範囲に入るかだけを測定して、ボードコンピュータでは予め最適値を計算しておいた調整用抵抗を選択してあげれば調整が自動化できるだろうと思ったのです。
       そこでレンズ計算用の大型コンピュータをお昼休みとか、レンズ計算が行われていない時間帯を狙って借りて 100万通りくらいの組み合わせの計算をさせました。ちょっと分割を細かくしすぎると組み合わせの数が何桁も増えて、計算が昼休みには終わらなくなって午後一番で計算機室に行くと待ち構えていた計算機室の室長から酷く怒られましたが。

      今から思うと、このマトリクスの全ての要素を細かく分割して計算しつくして、その中から最適値を求めるという方法は、 その後「有限要素法」として色々なコンピュータを使用した設計手法の主流となった革新的な理論と同じ考え方でした。(考え方だけですが)
       私がこの手法を試したのは、入社から1年目でしたから 1975年でした。 少なくとも社内では、当時誰もこうしたことは考えてすらいなかったようで、それから2~3年後に計算機室の同期入社の男から 「最近計算機の分野で、君がこの前やっていたようなマトリクス分割計算手法が電力会社の送電線の鉄塔の強度計算で話題になっているよ」と聞いてそのことを知りましたが。 そしてその考え方は、後に有限要素法として高いビルや橋の構造計算から天気予報など あらゆる分野でコンピュータシュミレーションとして無くてはならない手法になってしまいました。
    5. <アイデアは儚くも女性作業者に完敗!>
    6. でも、計算機室長に何度も怒られながらマトリクス計算した結果のプリントアウトの紙の束を持って出かけた工場でこの結果を実験してみると、なんと女性の作業者の調整精度に適わなかったのです。 いろいろ原因を探して最後に行き着いた結論は、作業者の「経験」と「勘」でした。
       作業者は測定器では測定できないような微妙な違いや、隣り合ったいくつかの明るさとの差を読み取って知らず知らずにフィードバックし、信じられないような精度で調整していたのです。 当時の測定技術では、特に露出計の針が振れる角度の検出が曖昧でそれを正確にフィードバックすることが不可能だったのです。
       これはエンジニアのお父さんにはすごいショックでした。 計算機室長に怒られたり、上司のOさんにせっつかれたりしながら 2-3ヶ月かけて一生懸命やった検討が儚くも水泡に帰した苦い経験でした。
       その時はショックでしたが後から考えると、この挫折経験をすることで 「いつかは絶対 作業者に負けない調整システムを自分で実現してやる。」 そんな夢が芽生えていたんだと思います。
    7. <雪辱のチャンス>
    8. それから、10年くらい経った時に そのチャンスは訪れました。
       それまでのメモリは DRAMと言う電気を切れば記憶も消えてしまうメモリか、電気を切っても記憶が消えない代わりに消去するのに紫外線照射が必要なUV-EPROMと言うメモリしかありませんでしたが、 EEPROMという電気を切っても記憶が消えない・書き込むのも電気で出来ると言うメモリIC が一個 300円くらいで実用化できそうだという話を別のICの売り込みに来ていた S電子の人から聞いたのです。 「これを使うしかない。」話を聞いていて、即座にそう閃きました。
       当時のカメラは明るさを測定してシャッターや絞りを決めるのに、決められた明るさが決められた電圧になるようにアナログの回路で調整してからデジタルに変換してシャッター速度や絞り値を制御するという方式になっていましたが、 デジタルメモリで調整の値を記憶しておけば調整は手動でなく完全自動化が可能になるはずです。 そしてこの調整の値は電池がなくなった時にも消えては困るので、電気を切っても消えないメモリがあればそれが可能になります。
       でもそれには同時にいくつか問題もありました。 EEPROMが 300円くらいで安いと言っても、カメラの部品として考えると 頭脳として働く CPUと同じくらいの値段で 5本指に入るくらい高い部品になってしまい、 今まで使っていた半固定抵抗 3~4個をなくしたくらいではコストアップしてしまってとても使えません。
       普通ならここで「使いたいけどやめておこう」と言う判断になります。しかし<夢>はそんなことでは諦められません。 そこで次に考えたのはフィルムカメラには フィルムのコマ数計というものがあります。 何枚写真をとったのか、あと何コマフィルムが残っているかを 文字盤や LCDに表示するものです。 これは、調整値とは関係なく写真をとるたびに変わるデータですが、やはり電池がなくなって記憶が消えてしまっては困るデータなのです。 だからその両方のデータを一つのメモリICで記憶すれば両方の部品代が減らせて、後はちょっとだけコスト計算に手心を加えればこのメモリ ICが使えるようになるだろうと目論みました。
       コストが何とか折り合ったとして、次の問題はこのメモリ ICの仕様です。このコマ数計と調整値の 2つのデータを同じメモリICに入れてしまうとプログラムは時々思わぬ誤動作をすることがあり、その結果 心配としてコマ数のデータを更新したときに誤って調整データも書き換わってしまうことがあるかも知れません。 これではカメラの露出などが狂ってしまい不良になってしまいますから、そんなシステムは使えません。

       そこで一つの ICの中を 2つのデータ用のエリアで区切り、一方のエリアに書き込むときと別のエリアに書き込むときで別の信号線を使うようにして、工場で調整値を書き込む時はその一方の信号線だけに信号を加えるようにし、調整が終わったらその信号線は切り離してしまおうと思ったのです。 でもその時メモリメーカーが計画している新しい メモリICに こんな特殊な仕様は当然入ってはいませんでした。
       後日、メモリICの開発の人を呼んで必死で「当社のためにこういう特別な仕様で EEPROMを作ってください。」そうお願いしましたが、S電子の人は想像もしない要求に面食らって「まず汎用品を作らないと通産省の助成金を受けられないので、それはこの次の機会にやらせて下さい。」と断られてしまいました。
       しかしその時を逃したらお父さんがカメラの開発を次に担当できるのは 早くても 2年くらい先になってしまいます。 社内にはおそらくお父さん以外にこうした「馬鹿な」ことを「まじめに」考える人はいません。 それでは他のカメラメーカーに負けてしまう、「今しかない」そう考えるともう居ても立っても居られませんでした。
       それから日本中の メモリICを作っているメーカーに片っ端電話して「EEPROM が作れますか」と尋ねました。 3社くらいがもうすぐ実用化が可能だと答えてくれましたが、でもやっと実用化できそうになったメモリICをいきなり一社だけのカスタムで作るなんて、当時の(今でも?)メモリICの業界常識には ありません。
       当然のことですが、全部のメーカから詳しい提案をする前に断られてしまったのです。
    9. <冷や汗タラタラ>
    10. でも「今を逃したら自分の手でこの技術を実現することは不可能だ」そう考えて、何度もしつこく電話をし アポを取って出かけては打ち合わせでお願いをしました。 「電気製品は今後 デジタル制御が主流になるが、その中で 調整を自動化することはコストにとってとても大切なことです。その時この技術は大切な技術になります。 TVだって電気を切っても、チャンネルは覚えておいて欲しいけど、工場の調整データが書き換わったら困るでしょ。 今ウチと一緒にこの技術を実用化できれば、絶対に その分野でも先行できますよ。」そう言って必死に説得しました。
      比較的親しかったメーカー(実はその会社の副社長とウチの会社の社長が海軍兵学校同期と言う間柄で、お互いの営業は注文が来たら断らないで何としても成約して点数を稼ぎたい、と言う事情があったのですが)の営業マンの手助けもあり、 とうとう 根負けしたのか F通の技術部長の方が「それでは汎用品を一時棚上げして、あなたの言うとおりの ICを作ってみましょう。」と言ってくれたのです。
      その時は大喜びしましたが、後になって冷静に考えてみるとこれは全身から冷汗が噴き出すような話です。汎用品のメモリIC開発を棚上げして 1機種のカメラのためにカスタム品を優先して開発するなんて、業界では常識外れもいいところだったと思います。 でもその時はそんなこと考えもしませんでした。
      ただ「自分の夢を実現したい。絶対にできる。」とそれだけを考えていました。
    11. <いつもまず社内の反対を乗越えなければ>
    12. こうしてやっと社外の協力が得られたのに、また壁が現れました。
       それは社内の反対意見でした。当時、精密機器メーカーと言えども電子部品の利用が急激に増えたこともあり、ICなどの電子部品に関わる不具合が増えてきたのでその品質不良を低減しようと、ICの信頼性をチェックするため社内には半導体のメーカから転職して来た半導体製造の専門家の人も何人かいました。 その人たちが、この話を聞きつけて 猛反対したのです。
       「EEPROMという ICは半導体の絶縁膜を通して電荷を注入蓄積するもので、半導体としては一歩間違えば絶縁膜が破壊してしまうと言う 非常に危険な使い方です。それを使用温度や電源がコントロールされたコンピュータではなくて、温度範囲や使い方の厳しいカメラに搭載するのは無謀です。 出来たばかりのメモリIC の市場テストを カメラでするようなものです。他の製品で使って問題が無くなってから使うべきです。」 そう言って猛反対されました(本当はもっと厳しい表現でしたが)。
       でも、メモリの信頼性はコンピュータの信頼性というカメラとは何桁も違う考え方の上に立って 10の◯乗というくらい非常に高い信頼性です。 それに対してそれまでカメラで調整に使用していた半固定抵抗という素子は振動などで結構ずれてしまったり経年変化で接触不良を起こしたりと、結構不良の多い素子でしたからメモリの信頼性がメモリメーカーの基準より若干低くなってもまだ半固定抵抗器の信頼性よりはマシだろうというようなことまで考えて、頭の中では勝算はありました。
       何よりこの技術を自分の手で実現できるチャンスが目の前にあるのですから諦める訳には行きません。何回か話をするうちに、こうした人たちも根負けして「N さんがそこまで言うなら、全面的に協力しましょう。IC メーカとの打合せには必ず出席して、信頼性評価の方法が充分か チェックしましょう。」そう言ってくれました。
       この人たちが、専門的な設計や信頼性試験方法を非常に厳しくチェックをしてくれたお陰で、こんな無謀な技術を実用化したにも拘らず結果的には市場でも全く問題を起こさず、狙い通り却って市場での調整不良はほとんど発生しなくなりました。
       ですから、この時協力してくれた社内外の人達にはとても感謝しています。
    13. <カスタムがいつの間にか業界標準になってしまった>
    14. それから更に数年した時のことです。海外を含めて メモリICのメーカの人が、似たような ICの話をいくつも紹介しに来るようになりました。でも、決まってこれらの仕様は 最初にお父さんが出した仕様と瓜二つの仕様でした。シリアルでデータが書き込めるため端子数が少なく小型で、メモリエリアが 2つに分かれていて、書き換え回数が 1万回で・・・ という具合です。
       売込みの打ち合わせに出席した友人の Aさんはそんな時「この基本仕様を作ったのが誰か知っていますか?」と言って、何も知らない代理店の人を困らせていました。
       実は、書き換え回数 1万回を要求したのは、カメラのメカニカルなシャッターの耐久性が 5,000回-1万回くらいですから、取敢えず 1万回持てばいいかなと、最初に要求した書き換え回数でした。結局、最初はカスタムの メモリICとして汎用品を棚上げしてもらって開発したIC が、その後、業界標準の汎用の仕様になってしまったのです。
       そんな経緯で、EEPROM が実用化されると同時に調整の自動化をしたわけですから、EEPROM という メモリICを使用して電気製品の調整作業を完全自動化したというのは、カメラは勿論全ての製品でお父さんが 「世界で初めて」だ、と言い切れる自信があります。
       当時から現在まで、S-RAMや D-RAMなどメモリICの標準品はアメリカが作って、それを日本が真似するというのが普通でしたが、市場は小さいものの 日本で作ったメモリICが世界標準になったというのもおそらく初めてのことだったと思います。
       今は、この方法が無ければほとんどのデジタル製品は出来ないといっても大げさではない技術になりました。
    15. <目標が無くなった>
    16. この時担当した製品には、それ以外にもそれまでに無かった技術をいくつか実現しました。
      (●それはこちら●)

      でもそれらの技術を完成させた反動は結構大きいものでした。夢中になっていて ふと気が付くと、10数年間夢にしてきたことが叶って、じゃあ次に何をやろうか考えても もうカメラの開発でやりたいことが残っていないことに気づきました。
      もう自分のアイデアでは自分で作ったシステムを乗り越えられない、カメラがフィルムという媒体に画像を記録する以上革新は出来ない、と感じたのです。どう考えても、後 残されているのは、2つのICを 1つにするとかカメラの電気回路を○円 安く作るとか、そんなことしか考えられません。他の人は考えないこと、とても実現できないと尻込みすることをアレコレ考えて実現させるのは得意ですが、○円安くするとか、○mm小さくするとか・・・・そう言った仕事を確実にこなすには他の人のほうがずっと適任だと思っていました。
      実は、それはお父さんにはとても苦手な仕事なのです。
      「もう自分がこの世界でやる仕事はない」 そう感じた時、フィルムカメラの開発から別の仕事に移ることを心に決めました。


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